
詩人
石田瑞穂
川の魚が好物だ。ぼくは海のない土地に生まれ育った。たまには家族で贅沢な夕餉をと、祖父母が「お刺身をとる」といえば、鯉の洗いだった。近所に腕のいい川魚屋さんがあって、きらきらと桜色に光る鯉の洗いを舟盛りにして届けてくれた。
鯉の刺身に酢味噌をつけ炊きたてのご飯と食べる。鯉の淡白な香と脂が銀舎利のほのかな甘みと旨味をひきたてつつ口中にひろまり、ほっぺが落ちる。母がつくってくれた、鯉のお頭で出汁をとる味噌汁「鯉こく」も、忘れられないふるさとの味だ。鯉はくさい、という御仁もいる。清らかな湧水で洗い〆た新鮮な鯉を食べ慣れた幼少のぼくには、むしろ、美味しい海の魚を食べた記憶があまりない。
そんなぼくにとって、夏の日光鬼怒川をおとずれる愉しみのひとつは、川魚、である。
以前も書いたように、栃木の鰻もいいが、ぼくのお目当ては故郷では食せない渓流の魚たち。初夏から中秋にかけて鬼怒川や那珂川の「やな」で食す鮎が最高である。やなは「簗」であり、川の両岸から竹や岩石で流れをくの字に堰き止め、頂点を開けてそこに簀をはり、流れを上り下る魚を漁るという昔ながらの漁法。いまは簗そのものが観光化され、川遊びや漁が体験できたり、食事処も併設されている。
ぼくも鬼怒川のやなの立派な藁葺き屋根の店で酒食をご馳走になったことがあり、すっかり気に入ってしまった。中洲を風が吹きぬけて、芦がやわらかな緑を涼しげにゆらす。水面をちらちら耀かせて流れ去る早瀬、せせらぎの鈴音は、眼にも耳にも涼しくここち好い。足元にも鬼怒川の清流を感じ、大暑を溜めた心身も流され洗われていくようだ。
そんなふうに五感と全身で田舎の涼を味わいながら、鮎の串焼きに齧りつき、日光の水と米で造った美酒を呑む。備長炭でじっくり焼かれた鮎は、ほくほくした白い身から湯気を燻らせる。その湯気さえも旨い。鮎をたいらげては皿に串をならべ、携えた古伊万里そば猪口に酒を注ぎ、炉端で焼かれるつぎの鮎を舌なめずりして待つ。炭火のまえに置かれた猪口が汗をかくのをみつめる。これこそ、風流に呑む、というやつだ。炉に焚べられた鮎を眺めるうち、飯田蛇笏の句をおもいだし、心の内外の燠へとひとりごちる。
めづらしやしずく尚ある串の鮎
清流から釣りあげられたばかりの、未だ清水を滴らせる鮎。鮎は香る魚とも書くけれど、串打たれたばかりの鮎からは西瓜にも喩えられる清冽な香が漂う。はしり鮎の新鮮さとともに、初夏のすがすがしさが伝わる秀句だ。とまれ、ここまでの鑑賞は折り返し地点にすぎない。鮎は古より人気のある夏の季語、俳材だ。鮎の友釣り、香ばしく焼かれる鮎、膳や皿の鮎と、今昔、膨大な鮎の句がつくられてきた。鮎句会も頻々と催される。だからこそ、量産される鮎の句から秀句をひねりだすのは至難の技。与謝蕪村の「鮎くれてよらで過行く夜半の門」の自在な心に比肩する句はいまも僅かだろう。
ところが、蛇笏は、ふつうなら面白くもなんともない、焼かれてもいない串打ちの鮎をあえて詠んでみせた。古来、風流で美味しそうな鮎の句は無数にあった。しかし、ただの串の鮎でもって鮎の新たな詩情を鮮烈にうたい、そのことにより俳人の眼の厳しさを顕示した句はなかったろう。その俳味こそ「めづらしや」というべきか。蛇笏は鮎の新たなポエジーを言葉で料理してみせたのだ。
文学談義はここまでにし、昔ながらのやなの鮎を堪能したぼくは鬼怒川金谷ホテルへとむかう。鮎の塩焼きはたしかに旨い。でも、それだけが川魚の愉しみではなかろう。もっと先の「めづらし」き川魚の風情、味覚、可能性を味わってみたい。
今夏の〔ダイニング ジョンカナヤ〕、〔鉄板膳所かなや〕も清新な川魚料理で魅せてくれそうだ。

石田 瑞穂
詩人。詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)など。最新詩集に『流雪孤詩』(思潮社)。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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