
詩人
石田瑞穂
温泉と夜桜。それが、ぼくらの小旅行の合言葉になった。「新車の試運転も兼ねてドライブにゆきませんか」という誘いを若手古美術商のS女史からうけて、では、近場の日光鬼怒川へ、と話はまとまった。
ところが、駅のロータリーでにこやかに手をふるSさんの〝新車〟をみて絶句。「どうです?かわいいでしょう。ロータス・エランのクーペ。一九六八年のモデルです」と得意満面。商売だけでなく愛車まで骨董品である。ぼくは「蛙のような御姿だね。草野心平さんが喜びそうだ」とつぶやくのがやっと。しかも、「ヴィンテージカーだし、高速道路は佐野までね」と女史。
低すぎる天井に背を丸めてのりこむクーペは、ベンツやボルボにパッシングされつつ疾駆する。それでも碧く透明にひろがる空のした、春霞の山をめざす疾走感にこころは晴れた。佐野では青竹で手捏ねする本家佐野ラーメンと味噌餃子を食し、「ろまんちっく村ビール」を買いこむ。助手席で栃木の地ビールを喇叭呑みしつつ、レンゲソウの絨毯やクサノオウの集落をのんびり走れば、イングランドの田舎をドライブする気分。背にどどどと響くロータスご自慢のツインカムエンジンの音も、いつしか風の音楽に感じられ、ぼくは中村苑子の句を口遊んだ。
春の日やあの世この世と馬車を駆り
われらが鉄馬車は黒磯市街を通過し大田原市両郷の山中へ。杉木立ちの山道をくねくねのぼる。クーペはぜいぜい息切れした。夕方にやっと目的地の八溝登山口に到着。樹齢六百年、高さ十七メートルの「磯上の山桜」は大満開だった。桜の袂に停車したS女史は、運転席からおりるや否や「ばえるなあ」とさけび、花見そっちのけでクーペのスマホ撮影にはいる。レストアされた銀のバンパーに夕闇の光線が薄紫に流れ、満開の花のしたでパールホワイトのボディが刻々と桜色に染まっていった。
山桜がライトアップされると、白色中輪の花をつけた大枝が朱鳥居の真上で双つにわかれ、桜の雲のようにふわふわ浮かんだ。その雲からはちらちらと、花の光片が舞い翔び、春の星座と踊りつづける。山中の真闇で、そこだけ竜宮城のように微光する参道口と老桜。それはまさに「あの世この世」の境にある風景だった。
ぼくらは鬼怒川温泉郷へと夜道を急ぐ。それぞれのホテルにチェックインしたあとは、冷えきった体を温泉で存分にあたためほぐした。夕食後、ぼくらは浴衣に下駄で鬼怒川温泉護国神社へ。温泉でお燗したワンカップを片手に、夜桜見物。神聖な山桜もいいけれど、人界の夜桜もいいものだ。温泉街の華やぎが、ライトアップされた染井吉野の花をよりいっそう美しくみせていた。
となりの女性の桜色に火照った頰をちらりとみて、ぼくはひとり苦笑する。このひと、ほんと愛車にしか興味がないんだなあ…。

石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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