
詩人
石田瑞穂
涼をもとめて、イギリスの湖水地方を旅したことがある。氷河が溶けてできたグラスミア湖の畔は、真夏だというのに肌寒いくらい。ヒースの紅紫の絨毯を雪割りの小川が流れ、水芹の雲間に鱒が泳ぐ。朝は兎が跳ねる野原をどこまでも歩き、夕は地元の詩聖ウィリアム・ワーズワースが通った一八世紀創業の岩屋のパブへ。
店内には一脚の古びたウィンザーチェアが置かれていた。老詩人が毎晩のように座り、湖を眺めながらエールを呑んだと語り継がれる椅子の背には、こんな言葉が彫ってある。
蒼白の月光が 白き波間に沈みゆき わたしの時も尽きかけている…
帰国の前夜。すっかりうちとけたパブの主が「明日は帰るんだろ?奢るよ」と注いでくれたのが、ジョニーウォーカー・ブラックラベル。数々の銘シングルモルトを呑んだ英国滞在の〆が、日本のスーパーでも買えるジョニ黒かあ…。ところが、美味い。まろやかな口あたりが、落ち着いた深みに変わり、舌の奥で華やかな揮発が一咲き─上質なスコッチの完璧な三段論法。
瞠目して、ボトルを手にすると、おや?ラベルのストライディングマンがむかって左に歩いている。一九六二年の稀少なボトルだった。月給三万円の時代に一本一万円はしたボトルであり、力道山が人生最後に呑んだ伝説の酒。パブの主はこんな物語も聴かせてくれた。
スコッチが金色なのは、なぜか。それは、大昔のケルト錬金術師が金を生成する過程で、偶然、ウィスキーを生みだしたからにほかならない。なんとも、すてきな黄金幻想じゃないか。

石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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