連載エッセイ 旅に遊ぶ心

2025 winter

秘湯と遊ぶ

秘湯と遊ぶ

詩人

石田瑞穂

温泉好きの雑誌編集者からこんな話を聞いて、山辺の湯に行きたくなった。「石田さんはよく鬼怒川に遊ばれていますが、奥鬼怒温泉郷をご存知ですか?関東屈指の秘湯色の濃い温泉場で、奥鬼怒四湯とも呼ばれ、八丁の湯、加仁湯、日光澤温泉、手白澤温泉、それぞれがじつに個性的な湯です。東京からはちょっと遠いけれど」

初冬の休日。ぼくは鬼怒川温泉駅に来ていた。駅近くの鬼怒川金谷ホテルにチェックイン。客室から大浴場に直行する。こちらの温泉は「滝の湯」で泉質はアルカリ性単純温泉。透明、無臭、鬼怒川の清流のごとく澄んだ湯は、湯触りもとろとろ、肌はすべすべに。ぼくにはもったいない美肌の湯だ。湯の表情は静かで大人しいが、効く。知らずうち体の芯まで温まり、入浴後も体がいつまでもぽかぽかして、それこそ滝のように快く汗をかく。体がほぐれて温まると急にお腹が空いた。夕餉ゆうげは、技と贅を尽くした金谷流懐石料理に舌鼓をうち、栃木の酒蔵の美酒に愉しく酔う。現世にも極楽はあった。

翌朝。極楽浄土を発つのは名残惜しいが、駅から路線バスで奥鬼怒温泉郷をめざす。山をわけいる車窓からは、きよらかな大気と樹々の香、耳を洗う龍王峡の渓流、奇岩の光景。紅葉もまだまだ盛りだ。一時間半ほどバスにゆられ終点の女夫淵めおとぶち温泉で下車。送迎バスに乗り換え、ついに八丁の湯に到達。紅葉林と冬草にうずもれるように山小屋風の木の宿があった。ここでもう一泊。

さっそく、八丁の湯へ。湯は無色透明の単純硫黄泉。鬼怒川源流の素晴らしく澄んだ清水は、周囲の紅葉を壮麗に水鏡し、湯の中まで紅や金に染まってゆれて。湯に浸かれば、山紅葉そのものを浴びているような。岩風呂のそばには滝もあり、滝見の湯を娯しむことができた。雪が降るころは、水流が凍結し、美しい氷瀑を眺めながらの温泉になるという。

さらに湯めぐりをしようと、三十分ほど散策して加仁湯へ。こちらは炭酸ガス及び硫化水素を含む泉質。湧出直後にコロイド硫黄成分となり濁り湯が生じる。ぼくが入浴したときは乳白色というより、湯が雪のようにまっ白く濁って変化し、神秘的な風情を醸していた。湯につかるうち「温泉の詩人」ともよばれた田中冬二のフレーズが、ふっと頭に浮かんだ。

  温泉のにほいがしんみりとやせている

これほど冬の秘湯の情緒をいいあらわした詩句もない。ちなみに、湯めぐり好きの冬二さん、一日に十六回も温泉にはいった記録があるとか。

翌日。冬二の詩行を口ずさみながら山道をさらに一時間歩き手白澤温泉へ。手白澤と日光澤はいまも歩きでないと辿り着けない。泉質は単純硫黄温泉だが青白色の湯。岩風呂からはどーんと白銀の鬼怒沼山が見晴らせた。それこそ雪のように白い湯の華がつぎつぎ湯口から舞い飛ぶ空色の温泉に浸かっていると、あの果てしない夏秋の大暑がやっと遠くに感じられるのだった。にしても、ここは「ちょっと遠い」どころではないぞ…。

石田 瑞穂

石田 瑞穂

詩人。詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)など。最新詩集に『流雪孤詩』(思潮社)。

「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。

おせち
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