
詩人
石田瑞穂
透明に晴れた初秋の一日。日光三依渓流にでかけた。会津鬼怒川線を北へ。車内でウヰスキーの水割を呑みつつ川治、湯西川をすぎて中三依温泉駅で下車。龍王峡の山は緑だが、岩肌からつきでた楓や櫟は黄から紅へ虹のようにめくるめく紅葉していた。
そんな旅の日には、西脇順三郎の名詩「秋」の一節を口遊みたくなる。
「タイフーンの吹いている朝/近所の店へ行って/あの黄色い外国製の鉛筆を買った/扇のように軽い鉛筆だ」
あのやわらかい木
けずった木屑を燃やすと
バラモンのにおいがする
洒脱なフレーズから香りたつものは、ぼくにとって鉛筆のそれではなく、燐寸の木が燃える香と旅の秋空に燻る紫煙である。
銀座の路地裏にある老舗バー〔Lupin〕のカウンターで「おまえさんにやるよ」と、随筆家のS氏から古めかしいライターをぽんとわたされたのは十年も昔。それは「UNIQUE」(一点物)と刻印されたダンヒル社製純銀ライターで、S氏が愛喫していた真夜中色の両切り莨〔Peace〕とともに、氏のトレードマークだった。「これが人生最後の一本」と言い放ち、旨そうに喫い了えた直後であった。それから半年後、定年退職したS氏は夫婦でタイの海辺に移住した。「昔から煙草は艹に良いと書く。だから良いものなんだよ」。バーのドアをあけると、S氏のピースの芳香が出迎えてくれたことをなつかしく思い出す。
さておき、入山沢には渓流魚を食べにきたのだ。俳句の季語にもなっているけれど、夏の終りから秋の初めにかけて釣れる鮎は「錆鮎」といい、丸々と太って全身に黒斑がうく。釣り人のS氏も錆鮎に眼がなかった。
温暖化のせいなのか、虹の階調で紅葉する樹々の天蓋。渓流をわたる冷涼な秋風を浴びつつ、鮎や山女を盧にくべると、盛夏とはちがい、炭火と煙の温もりが心地好い。地酒〔日光誉〕をコップで呷り、ほっこり焼けた渓流魚を頬ばる。〆には秋の乳茸に椎茸、秋茄子が盛られ、小麦粉の味香がちゃんとするあったかい手打ちうどんを啜った。ああ、秋になって、よかった。
ダンヒルのライターで莨に火をつける。点火の感触がボッではなくシュッであり、燐寸のつけ心地にちかいのが愛おしい。二十数年間、愛喫していたものの、一昨年、販売終了の憂き目にあったフランス莨〔ゴロワーズ〕。その最後の一本に火をつけた。数々のフランス映画に登場した莨で、初期ゴダールの傑作『勝手にしやがれ』でジャン=ポール・ベルモンドが無造作に喫う容がとにかく洒落ていた。この大衆的な両切り莨を最後まで支持したのは、ヌーベルヴァーグ映画を愛した日本人だったという。空気の美味しい山中で喫う莨は、なぜ、こんなに旨いのか。殊には、すべてが透明になる、秋の澄んだ大気に燻らす紫煙は。まさしく「バラモンのにおい」。
人生には、思い出をつくらなければならない時がある気がした。その人生の“とき”を旅は叶えてくれる。呑み頃のワインのように。ふと、タイからの年賀状が思い出された。写真のS氏の日焼けした右手指には、紫煙たつ細身のシガーがあった。

石田 瑞穂
詩人。詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)など。最新詩集に『流雪孤詩』(思潮社)。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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