
詩人
石田瑞穂
冬の鬼怒川が好きだ。夏は涼をもとめて龍王峡へ、秋は紅葉狩に奥鬼怒へ、そんな観光客の人波もひいたころ、冬の鬼怒川は静けさをとりもどす。
蝉や鈴虫の威声も途絶え、冬枯れして白茶けた山々は静寂につつまれる。一見、荒涼とした風景が地平線までつづく。でも、その広々とした無人、その孤独がなぜだか心地好い。日々のノイズに疲弊した心身が、冬の山野とともにしんと静まりかえり安らぐのである。
旅は正当な孤独をとりもどす、そう書いたのは文豪アーネスト・ヘミングウェイだったか…そして、ぼくは、私淑するアメリカはアマーストの女性詩人エミリー・ディキンソンの冬の詩を口遊むのである。
斜めに射し込む光があります—
冬の日の午後—
大聖堂の調べの重みのように、
それは人の心を圧します—
寒々と透く大気に、冬の光は、低く斜めに射しこんでくる。静謐に輝く山肌に樹々は影で抽象画をえがき、ヒメシャラの枝は枯葉の海に繊細な陰影を耀わせる。古大樹の列のはざまから、地上へと冬陽を斜めに降りそそがせる日光杉並木街道は、カテドラルのように荘厳だ。
朝、ホテルの窓から、渓谷の対岸に白く光る山をぼうっと眺める。瞑想のように。珈琲を淹れて、ジャズを聴く。ひらいた本から瞳をあげると、電線にとまったジョウビタキと目があう。ブランクになった時の流れから、言葉の泡沫が浮かび、友に無沙汰を詫びるつもりの便りは、いつしか自分自身に宛てた手紙になっている。
午後は川治温泉の薬師の湯へ。鬼怒川沿いの野趣あふれる村の共同浴場は、草臥れた木造の湯屋が、かえって鄙びた温泉情緒を醸している。青空のすぐしたの露天風呂は、身も心も解き放ってくれた。川が治す、というぬるめの澄みきった湯で全身をほぐす。冬の渓谷の花、霜柱の氷華が木蔭にきらきら咲いて、そよ風が柚子の香を添えた。
すこしかしいだ湯屋をみていたら、ふたたびディキンソンの詩をおもいだした。「真実をそっくり語りなさい、しかし斜めに語りなさい—」。まさにポエジーの真髄であり、人生の教えでもある名フレーズではないか。「真実はゆっくりと輝くのがよいのです」。
真実の光をもとめて、あるいはたんに"普通"に暮らしてゆくために人は生をひた疾る。でも、そのことが人を深く傷つけてしまうこともある。だからもしこれ以上、人生が航行不能になったら、冬の光に倣い、斜めに舵をきって再出発しよう。ゆっくりと輝くために。

石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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