
詩人
石田瑞穂
鬼怒川温泉へも電車で直行できる東京下町の浅草。隅田川に架かる駒形橋ちかくの泥鰌鍋の老舗〔駒形どぜう〕で、ぼくは〝イギリスから来た男〟と待ち合わせていた。
彼の名はジョン・コリアー。二十世紀初頭の有名小説家と同姓同名だが、氏は大学の創作科で教える老詩人で旅行作家でもある。ジョンにたのまれ、ぼくが江戸食の名店を案内することになった。英国の〝芥川龍之介〟さんに指南するわけだから、ヘンな気分である。
いきなり、どぜうはハードルが高いと思われた。しかし、泥鰌鍋は本物?のコリアーと淡交した、日本の詩人西脇順三郎が愛好した郷土料理だと解説すると、ジョンは恐る恐る奇妙な川魚に箸をのばし「やや?旨い」と瞳を輝かせた。可笑しかったのは、江戸前蕎麦の老舗〔並木薮〕で「ヌキ」を注文したとき。蕎麦がはいっておらず、かき揚げ天だけがつゆに浮かぶ碗を覗きこんだジョンは…「イシダさん、蕎麦なのに蕎麦ヌキとはいかに?それでも値段は蕎麦アリと一緒。魂消た。まさに空ですね」と蕎麦問答しつつ驚嘆したのだった。
そんなニッポン初心者のジョンが、ホテル隣の鉄板焼の老舗〔ステーキハウス松波〕を気に入った。彼は出版社の経費で毎日、ランチタイムをそこで過ごしていた。オーソドキシーを重んじる店内の雰囲気、接客、食事もさることながら、シェフが目の前でステーキや魚介を焼き、フランベの炎があがる光景に魅了された。鉄板焼という和洋折衷料理を、なぜか日本的と感じたようだ。
ぼくもご相伴にあずかりワインを一本追加する。呑み代に、ちょっとした思い出話を披露した。昔のホテルには、かならず鉄板焼と天ぷらのレストランがはいっていた。ところがある時期から、鉄板焼はホテルから消えてしまった。「あなたと遊んだ神田神保町古書店街には物書きたちが〝カンヅメ〟にされることで有名なクラシックホテルがあるんだ。いまでは法律違反だけど、出版社の編集者が原稿の〆切をすぎた作家や詩人をホテルの一室に軟禁し、監視付で無理やり書かせるんだよ」
ジョンは「おお神さま!」とグラスを掲げ爆笑する。
「そんなカンヅメで唯一愉しみなのが、筆休めの夜食。高級ホテルで食す鉄板焼や天ぷらなんだ。若きぼくも豪華な夕餉に釣られて、原稿用紙六十枚を一泊二日で書かされたことがあった。でも夜食どころかベッドにすらはいれない。徹夜明けの昼に脱稿したのだけれど…」
頭痛と眩暈に襲われるぼくだったが、出版社がくれた食事券を握りしめ、根性で鉄板焼レストランのカウンターに座った。尾羽打ち枯らしたぼくを見兼ねて、シェフが「ステーキは無理そうですね。でも、これなら」と鉄板上で鮮やかに拵えてくれたのが「伊勢海老とクレソンのオムレツ」。食欲の失せたぼくでも苦もなく食せた。心遣いも嬉しい、絶品のオムレツであった…。
黙って聴いていた老詩人が「シェフ、オムレツ、できます?」と、たまらず尋ねた。

石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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