
詩人
石田瑞穂
スロベニア最古の都プトゥイでは、秋に〈詩とワインの日々〉という文学とアートの祭典が催され、ヨーロッパ諸国から観光客がつめかける。
プトゥイはプラハを一廻りちいさくした美しき城塞都市。詩祭のある十日間はブティックや教会、石の路地のいたるところにアートが展示され、バーやカフェでは各国を代表する詩人たちが朗読やトークに華を咲かせる。そして、フェスティバルで観光客に供されるグラスワインは、すべて無料なのである。
コロナ禍以前のある年に、ぼくも招待をうけた。プトゥイ城内のワイン蔵で中世の燭台に火を灯し、グラスを片手にセルビアの女性詩人ドラガナ・ミラノヴィクさんと朗読を愉しんだ晩のこと。ニコラと名乗る老紳士が話しかけてきた。カバイというワイナリーのオーナーだと自己紹介しながら「私の祖父が愛唱した詩を、ぜひ、あなたに伝えたくて」と、太く響くバリトンで、
私の亡きあと ぶどうの樹のそばに埋めておくれ
私の亡きあと その根が骨を潤してくれるように
と朗唱してみせる。見事な酒精の詩に、ぼくは感動し、老人とグラスをあげて呵々大笑したのだった。
帰国後、ぼくはその詩が東欧の詩人の作ではないことを知った。詩は八世紀のアッバス朝イスラム帝国の大詩人アブー・ヌワースの「酒を注げ、そして歌え」であった。紀元前六十九年にローマ皇帝ウェスパシアヌスが選帝されたプトゥイは、欧州最古のワイン銘醸地でもある。そこに古代アラビア世界の詩が口伝されていた…なんてロマンに酔うのもワインの興だろう。
詩祭のあとの休日。ニコラの家にまねかれて、第二都マリボルに逗留した。東欧独特のオレンジの屋根瓦に蜂蜜色の石造りの家々が列ぶ、マリボルのワイン造りの歴史は、二千四百年にもおよぶという。古代ローマ期とおなじ、床下に設えた土器でワインを醸すクヴェヴリも見学した。冷涼地のスロベニアで醸されるのは、ほとんどが白ワイン。しっかりした酸味で旨味とコクが強いが、異邦の野花のような可憐さも感じられた。
いまも思い出すのは、ニコラがつれていってくれた〈オールドワインハウス〉である。苔むした石の軒先には、ぶどうの古木がまっ赤に紅葉した蔓を這わせていた。樹齢四百年。いまも現役でワインの実をつけているという。幹は痩せほそっているが、ホメロスの曳く杖のごとき

石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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