
詩人
石田瑞穂
コートのポケットにマイぐい呑みをつっこんで、山桜に逢いにでかけた。北へ、北へ、桜前線をおって。琵琶湖畔の千本桜を歩きだし、狩宿の下馬桜、盛岡の石割桜へと。夢まぼろしの感触しかしない薄墨の花をあおぎ、気がつけば盃をあげている。吉野でも、
山桜枝きる風のなごりなく 花をさながらわがものにする
と歌った、西行さんに想い憧れて、無心に盃を乾している。
昨年、年号が令和になったが、万葉集で花といえば、梅のことだった。それでも、いつしか、日本人にとって、花は、桜になった。そこには、非の打所ない完全さよりも、短命の、儚い存在に、より尊い美をみいだす日本人のやみがたい情感があるのだろう。
鬼怒川渓谷高原山の麓だった。流紋岩の幼い緑に、一本、そこだけまわりを明るませて山桜が咲いていた。薄桜の樹冠は天高く、眼をこらせば、遥か青空の奥からちらちらと光の雨のような落花が舞いこぼれて。やどり木と苔をまとう老木でも、豪華、という感想が口をつく。それでいて、派手とか賑やかというのではなく、しん、と、ひそまって楚々とした風情があった。ほかのどんな樹花でもない。浅い春の山桜にしか醸せないおおどかに孤独な宇宙があった。
きっと、名もない桜だろう。森には、山桜とぼくしかいない。
まだ冷たい風が、満開の花をざわめかせるのかとおもえば、いつのまにか、蜜蜂の群がきている。また、いちまい。散華した花びらが、古い無地唐津のぐい呑みに桜の舟を浮かべた。

石田 瑞穂
詩人。代表詩集に『まどろみの島』(第63回H氏賞受賞)、『耳の笹舟』(第54回藤村記念歴程賞受賞)、新刊詩集に『Asian Dream』がある。左右社WEBで紀行文「詩への旅」を連載中。
「旅に遊ぶ心」は、旅を通じて日本の四季を感じ、旅を愉しむ大人の遊び心あるエッセイです。
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